わたしの勝手口

気付けばアラフィフ。人生の中間決算がてら昭和から平成の懐かしい話と、日々の楽しいことを綴っています。

街のパン屋さん

商店街や住宅街にある、昔ながらの個人経営のパン屋さんをあまり見なくなった。大手チェーンの美味しいベーカリーや高級ベーカリーも大好きだけど、時に恋しくなるのが昔ながらの地域で愛されるパン屋さん。特に記憶に残っているのが、結婚した当初仮住まいしていた狭いマンションの近所にあったベーカリー〇〇(個人名)という家族経営のようなパン屋さん。仕事帰りに見つけて以来通うようになった。好きなパン屋さんの個人的条件は、クリームパンの中のクリームが好みであること。香料くさくなくどちらかというと手作り感のある素朴なカスタードクリーム。これだけは今でも譲れないものがあるけれど、意外になかなか出会えない。

そのお店でとても気に入っていたのは、クリームパンの他に「UFO」と呼ばれるクッキー生地をコーティングしてUFOのような形に焼き上げたパン。帽子パンともいうらしい。中に入っているクリームがまた、とろりとしていてミルクと卵の風味がやさしく広がるようなものだった。ほんのり甘いパン生地、周りのクッキー部分の甘くほろほろとした食感。ふつうに考えてカロリー爆弾なので時折のご褒美と称して食べていた(食べてたんかい)。

結婚一年目の我が家、クリスマスケーキはどこで用意しようかなんて考えていた頃、そのベーカリーでケーキ予約を受け付けているではないか!当時の我が家にしては奮発したお値段だったけど、これは絶対美味しいだろうとホールケーキを注文してみた。

結果、想像以上。

決して高級洋菓子店のような華やかさはない。昭和時代の料理上手なお母さんが作ったケーキのような、ずっしりと重量感がありながらふわふわしたスポンジにたっぷりの生クリーム、フルーツはいちごと黄桃のシロップ漬けを使った懐かしいテイスト。早速いただいてみると思ったよりくどくない。いかにもお腹に溜まりそうな見た目に反してさくさくと食べ進めてしまった。とにかくスポンジが美味しいのだ。いくらクリームとフルーツが良質のものでもスポンジがパサパサだとそれぞれが相容れなくて残念な食感になってしまうけれど、スポンジの美味しさがクリームとフルーツを包みこんで混然一体になり胃袋にするりと落ちていくような感覚だった。とはいえ2人で1ホールは流石に幾ら何でも食べきれないので翌日に自己責任の下、美味しく完食した。

翌年の夏に引っ越してしまったので、そのベーカリーにお世話になったのは1年足らずだった。ふと思い出して今もあるだろうか検索しても引っかかってこない。もう閉めてしまったのだろうか。確かめにその街を訪れてみようかと思いながらも躊躇う思いもある。こんなことなら時折訪れてみては良かったと、この店に限らず思うことが多い。

 

時折出先などで、小さなパン屋さんに出会うことがある。あんぱんやクリームパンはもちろん、ジャムパンとかチョココロネとかあったら最高だ。決しておしゃれじゃなくていい。ひところ流行った高級カレーパンのカリっとした歯ごたえと中のカレーのクオリティの高さも捨てがたいけれど、ちょっと油じみた、ラグビーボールを平たくしたようなカレーパンを頬張る時の懐かしさはまた別物だ。残念ながら今住んでいるところの近くにはそういったパン屋さんは無い。きっとどんどん減ってしまっているんだと思う。偶然見つけた店に入りたいけれど仕事中だったりでタイミングが悪く通り過ぎてしまった事も多々あって、今度行けたら行く、と思っていた店が次にはもう無いなんてことは当たり前にある。コロナ禍でそれでなくとも個人経営が厳しくなっているこの頃、行きたい店には行っておいた方がいいと改めて思う。

 

 

友達の家電を暗記していた時代

以前に手書きと活字について書いたが、今回は携帯を持つ以前の固定電話、いわゆる家電(いえでん)との付き合いについて思い返してみる。そもそも携帯が普及する以前はわざわざ「家の」電話という呼び方もしなかったわけだけれど。

当然ながら学生時代の連絡手段はおもに電話。学校の名簿には当たり前に電話番号が載っていたしそれで悪用されたとかいう問題もあまり聞かなかった。なんなら卒業アルバムにも住所電話番号が載っていたから、中学を卒業するとそれを頼りに好きだった子に電話をかけて(学校だと言えなかったとかなんとか)お付き合いに発展するといった話もあったらしいが、私のところには待てど暮らせどそんな電話は来なかったぞ(笑)

冗談はさておき、小学校高学年になる頃には当たり前のように同級生の自宅に電話をかけて遊ぶ約束をしていた。もちろん友達の母親が出る確率が高かったので、電話のかけ方はきちんと教わっていた。はじめに名乗ること、丁寧語を使うこと、切るときは相手が切ってから静かに切ること。基本的なことだけれど人によっては話が終わるなりガチャ切りされることもあったから、子供の頃からマナーを教えられていたのは本当に母に感謝する。

逆に相手の親御さんの人となりも垣間見ることが出来た。実家に居る頃は学校行事やらでなんだかんだ親子共々面識あり、ということも多かったから「あら~こんにちは」なんて気持ちよく挨拶を交わしてから電話を替わってもらったりもしていた。問題は上京してから。今の大学生には想像もつかないだろうが連絡は全て固定電話だった。つまり、彼氏に電話をかけた時に彼氏のお母さんという関所を無事に通り抜ける必要が多々あった。いや、取り次いで貰えないなんてことはなかったが、これがどれだけ緊張することか。嫌われないように、常識がないと思われないようにつとめて丁寧に。これは母の教えとバイトでの経験が役に立ったようで、まあまあそつなくこなせていたと思う。しかし残念ながら「このお母さんちょっとヤバいわ」と思わざるを得なかったこともある。付き合い始めの頃にはそんな違和感にも蓋をしがちだけれど後になってみれば電話の出方ひとつ取っても家庭の縮図ともいえるし、この親にしてこの子だったと辻褄が合ってしまったほどに正しい防衛本能が働いたのだ。携帯やスマホがない時代だったからこそ早めに出来た危機回避なのかも知れない。

 

平成の初期は、留守番電話も必要不可欠なツールだった。当時のトレンディドラマでも留守電にメッセージを聞いて飛び出して行ってすれ違い、また留守電にメッセージを入れるなんて場面も見た気がする。まるで白ヤギさんと黒ヤギさんのようでもどかしかったけれど、留守電メッセージを聞いて初めて次のアクションを起こすわけだから致し方ない。今にしてみれば時間と労力の無駄と言われても当然だがそうするしかなかった。ちなみに留守電の応答メッセージを自分で好きに入れていた人も多かった。BGM流してみたり捻ったオリジナルのメッセージにしてみたり。テレアポのバイトで個人宅にかけた時には「お電話ありがとう!僕は今留守でーす」なんて応答もあった。自分の声で応答メッセージ入れていたなんて、随分平和な時代だったもんだと今なら思ってしまう。今は固定電話の留守録機能は切っているし、固定電話にかかってくるのはほぼ100%セールスの電話だ。もう少し歳を取ってシンプルに暮らすようになったら、思い切って手放すのも有りかも知れない。

留守番電話でよく使っていた機能が「出先から留守録を聞く」というものだった。待ち合わせ相手が遅刻しそうな時にこちらの留守電にその旨を入れておいてくれれば、こちらで聞いて時間をつぶすなり出来た。それに甘えて平気で遅刻する不届き者も多かったが……。私は待ち合わせ時間はきっちり守る方だが、若い頃はどちらかというと待ちぼうけを食らうことが多かった。他人の時間を無駄遣いするのが許せない性質なので悪質な場合は容赦なく帰ってしまった事も多々あったし、あの頃携帯があったらもっと気が楽だったろうなと思わずにはいられない。

 

今では連絡手段はほぼLINEかショートメール、直接話したい用事がある時は「今電話していい?」と確認した上で電話をかける。毎日のように長電話していた学生時代からは想像もつかない。それに、気付けば自分の携帯番号と自宅と実家の固定電話番号以外に暗記している番号が無い。そもそも覚える必要がないから、と言ってしまえばそれまでだが、当時はクラスの仲の良い友達の家電の番号をソラで覚えていたのだ。それも一人や二人ではない。指が覚えている番号を、ダイヤルを回して電話をかけるのが普通だった頃がもはや信じられないほど昔になってしまった。

 

 

 

 

 

手書きと活字

自粛生活が始まってから生活パターンが変わった。完全にテレワークとなり、買い物や所用、近所のカフェでの息抜き以外は家に居る日々。ここまで長時間在宅することは一時的に仕事を辞めていた時期以外になかったので始めは戸惑ったが、とりあえず忙しさにかまけて先延ばしにしていた家の片付けをして、まずは快適さを取り戻した。もう一つ余裕が無く出来ていなかったことは、手書きツールでの友人への連絡。基本はLINEでこまめに連絡を取れているけれど、スマホを持たない、または最低限しか使わない、LINEはしない、という友人への連絡手段としてアナログツールが必要になる。

コンピューターがパーソナルなものでなく、携帯もまだ無かった頃に学生時代を過ごしていた世代ゆえ、学生時代の友人とは随分と手書きでの遣り取りをした。何かというと手紙を書いていたし(便箋とかルーズリーフに書いた手紙の可愛い折り方が流行った)例えば卒業や転校で離れ離れになると「手紙書くからね」って流れに必ずなっていた。基本的に手紙類は取っておく方だったので、なかなか膨大な数になっている。逆に皆が携帯を持つようになった時、メールでの遣り取りにちょっと不思議な感覚を持った。いつでもすぐに連絡が取れるのは便利だし、こまめに連絡を取るようになったから距離感は近くなった筈だけど、変な話ちょっと寂しいような拍子抜けした思いもある。筆跡も熟知している同士が液晶の上の活字と絵文字でコミュニケーションを取るのは、慣れるまで少々の照れ臭さみたいなものもあった気がする。

 

少し前に断捨離をして、手紙の束を整理した。もともと交流が浅く現在お付き合いのない方からの年賀状や、互いに(元)彼の愚痴を書きまくったり、当時なりに重い悩みを綴った学生時代の手紙などはもう役目を終えたものなのでそっと心の中でお焚き上げをするように処分。現在もお付き合いの続く友人からの手紙や年賀状は時系列に見ていると、彼女らと自分の人生が同時に浮かび上がってくるようで、ついつい片付けの手が止まってしまう。

かつて毎日のようにポストを覗いてみたり、ポストに落ちる「パサッ」という音に素早く反応して玄関に駆け付けたり、自分宛の手紙じゃないことにがっかりしたり。その感覚は今では大方失ってしまった。手紙を投函して2~3日経てば、相手はそれを読んだだろうか、どう思っただろうかなんて気になって、返事が来るまでドキドキしたものだけれど、今ではLINEで既読が付くことでそのタイムラグは大きく省かれている。とはいえ返事を待つ気持ちはほんの数分間だとしてもちゃんと味わえるし、リアルタイムで来る分良い意味で生々しいのではないかとも思う。そう思えば「手紙の返事が来ない」ことは今でいう「既読スルー」と同じなのかも知れない。返事が来なくてヤキモキしたり或いは密かに心痛めていたりした記憶を追体験するようだともいえるけれど、今となっては返信が来ないことで悲しむような相手はいないし「忙しいんだな」「元気でいればそれでOK」と思える程になってきた(自分の筆不精を棚に上げつつ)。むしろ既読にならないと「何かあったのでは……」と心配をしてしまうということはあるが。

 

一時はあまりに手書きの文化から離れすぎて、漢字を書けなくなることや字が下手になることへの不安があった。ここでもう一度手書きに触れてみると懐かしくも安らかな思いに気付いている。偶然かも知れないが、普段LINEのみで遣り取りする友人からも不意に手紙が届いて嬉しくなった。

メールの文面は味気ない、と今でも言う人がいるだろうか。確かに筆跡は一人ひとり違うものだし人となりが読み取れるものだけれど、メールやLINEにもそれぞれ癖があって面白いと思う。ご本人のイメージにギャップを感じるほど絵文字を多用していたり、普段は理路整然と話す人が可愛いメールを送って寄越したり、絵文字やスタンプは一切使用しない主義の人がいたりと、なかなかユニークだ。手書きも良い、活字も良い、それぞれの良いとこ取りが出来るいい時代になったものだと思う。

 

 

 

 

夏休みといえば

夏休みといえば。

ラジオ体操、冷やしそうめん、ひまわり、虫取り、風鈴、すいか、アイスキャンディー、扇風機、サイダー、朝顔、手持ち花火、おばあちゃんの家。これだけのキーワードが瞬時に浮かんでくる。どれも懐かしくてふと当時の思い出が映像のように鮮明に蘇ってきそうだ。

 

私の住んでいた地方は、夏休みがちょうど1ヶ月しかなかった。漫画なんかでは8月31日に慌てて宿題をやるシーンなんかをよく見たけれど、こちとら20日で夏休み終わりなんだよ…と恨めしく思ったものだ。ちなみに、その分冬休みが長いんじゃないかと言われたがそうでもなかった。4~5日遅れて三学期が始まる程度なので、常に不公平感を抱いたものだ(微妙に根に持ってる・笑)。

 

それはさておき、小学校の夏休みには祖母の家にしばらく滞在することが多かった。おばあちゃん子だったこともあり、祖母の家に行くことがとにかく好きだった。長女としてしっかりせよと育てられた分、祖母には随分甘えていたと思う。我儘を言うタイプの子供ではなかったし、あれが欲しいこれが欲しいとせがんだわけではなかった。ただ、祖母と一緒にお出掛けすることが何より好きだったのだ。近所のスーパーまで徒歩15分の田んぼ道を他愛ない話をしながら歩くことが楽しくて仕方なかった。お盆には祖父の墓参りに行き、その帰りに市街地で食事をして帰る。路線バスの乗り方も祖母に教わった。古びたバスの板張りの床と、冷房の効いたバスの独特な匂いまで思い出せる。

中学生になり部活に夢中になっていた私は、夏休みに祖母の家に長期滞在することはなくなっていた。せいぜいお盆の前後一週間くらいだったけれど、家族より先に一人で向かうこともあった。在来線に一時間ほど乗って、単線のローカル線に乗り換える。反対方向からくる電車とすれ違うための待ち合わせがあるような、のどかな電車。降りる駅は無人駅で、車掌さんに切符を渡したような記憶がある。錆びた階段を下りて小さな踏切を渡り、こじんまりとした住宅街に入ると自然に歩みが早くなる。祖母も同じように気を急かしては玄関の外に出て迎えてくれていた。

 

夏休みの思い出は祖母との思い出にリンクしている。それは歳を重ねてからも変わることはなく、折に触れ懐かしく思うものだった。小学校の頃の夏休みに一緒に過ごしたことがどれだけ楽しかったか、それは後年になって祖母を送る辞(ことば)としても伝えたくらいに、私の人生を構築するうえで幸せな要素を与えてくれていたことは間違いない。

 

 

 

 

 

 

インターネットを使い始めた頃

初めてインターネットに触れたのは1997年頃だったと思う。我が家にWindows95を搭載したデスクトップPCがやってきた。始めは夫がやっていたオンラインゲームから馴染んでいった気がする。今でこそ当たり前となったオンラインゲームだけれど、知らない人と回線繋げてパーティー組んで敵と戦うってどうなの大丈夫なの?と戦々恐々。やってみたいけどバトルゲームでドン臭いのがバレたら恥ずかしいし、何より絶対足を引っ張る気しかしない……と随分と尻込みした気がする。戦うだけならまだしもチャットをしながらコミュニケーションを取らなきゃいけない(例えばアイテムの交換とか、ボスを倒した後の「お疲れ!」的な挨拶とか)のさえ負担だと感じていた。人と面と向かって交流するのは全く平気だし、寧ろ人を相手にする仕事もしてきているのに、どうもネットだと余計に「失礼があってはいけない」と感じてしまい突如としてコミュ障になってしまっていた。後述の通り、慣れはするけれど。

 

そのうちに、同じ趣味同士で繋がる「メーリングリスト」が流行った。芸能、音楽、映画、旅行、その他もろもろのジャンルでグループを作り、メールを出すと全員に送信される流れ。その中で気になる部分があったりすると、名指しでレスポンスしたりする。

例えば、

 

>〇〇さん

私も△△好きです!今度行きたいですね♪

 

といった具合にメールに反応することによって、そこから交流が生まれたりする。仲良くなると「オフ会」が開催されたり個人的に友達付き合いすることになったり。SNSの黎明期みたいなもので、顔の見えない交流にもだいぶ慣れてきていた。今でもその繋がりで仲良くさせていただいている方もいるし、仕事以外での世代を超えた交流というのが新鮮だったので、毎日メールを開くのが楽しみだった。しかしやはりストレスに感じる場面はあって、とあるメーリングリストに登録して積極的にメールを発信していたのに完全にスルーされ、元々いたメンバーだけで盛り上がっていたり。または当時必ずしも皆が皆ネット慣れしていたわけではないから、中には空気を読めなかったり、テンションが上がり過ぎたのかちょっと失礼では?と思われる発言もちらほら見かけて、当事者じゃないのにハラハラさせられるなんてことも多々あった。

 

やがてメーリングリスト自体が下火になってきた頃、とあるバンドのオフィシャルサイトに誰でも書き込める掲示板があった。そこでファン同士の交流が始まり、一緒にライブに行ったり家が近い者同士で飲みに行っていた。時々掲示板が荒れたりして、意見の食い違いで喧嘩にもなっていたけれど、オフィシャルサイトでこういう事が日常に起きるくらい当時は緩かったのだ。そのうち掲示板は有料会員のみのサービスになり、私も一時期の熱は冷めてしまったが、ごく少数の友人だけで無料のチャットルームを使い夜な夜な他愛もない話で盛り上がっていた。

 

当初はダイヤルアップ接続で、立ち上がるのも遅いし通信料がべらぼうにかかった気がする。Wi-Fiなんて無いから夜間に料金内でつなぎ放題になるテレホーダイを利用したりしていた。今では考えられない不便なネット環境だったし、顔の見えない交流は難しいものがあるけれど、それ以上に楽しいものではあった。ちなみに、件のバンドのファン同士の交流で仲良くなった方が、実は私の親しい友人の姉だと判明した時は笑った。少しずつ互いを知っていくにつれて、どこに住んでいる、いくつ下の妹がいるという話になり、友人からは「姉が同じバンドのファンで、姉の好きなメンバーと自分が同じ誕生日だからいつも羨ましがられる」と聞いていたので(それも一致していた)、「違ったらごめん」と前置きしたうえで訊いてみたらビンゴで、次のライブの当日に全員でご対面。そんな奇跡も起こるのだから、あまりネットに変なことも書けないなと(笑)

 

今でこそPCよりスマホを使うことが多いけれど、インターネットを使い始めた頃の、やたら奥行きのあるデスクトップ、持て囃されたiMacのカラフルなCM、通信料を気にしながらの調べもの、やたら発信されていたネットマナーの啓発、今思い出すと懐かしい。さすがに戻りたくはないけど。

給食の思い出

学校給食の歴史についてTVや動画で見る機会があり、年代別に給食メニューが紹介されていた。給食ネタはつい懐かしく見入ってしまうし、同世代と給食の話になると何故か出身地を問わず盛り上がってしまう。それもそのはず、ざっと計算して1ヶ月に20日給食があるとして、長期休みとか行事の日なんかもあるから単純に3ヶ月分を差し引いたとしても、20×9ヶ月分=180日。小学校6年間で180×6=1,080回、プラス中学校3年間で540回。えっ、こんなに?と思うほど給食のお世話になっていた。

人を構成する大切な「食」の機会がここまで給食に依存していたなら、当然思い出も山ほど出てくるし、それ以外にも大きな意義があったと個人的には思っている。まず好き嫌いを克服できたこと。給食を機に食べられるようになったもの(食わず嫌い含む)は例えばひじきの煮物とか漬け物、レーズンなど。もちろん給食に出たところで駄目なものは駄目ではあったけど。そして、家庭ではなかなか食べられないメニューに触れる機会であったこと。昭和50年代にスパゲッティといえばナポリタンかミートソースだったし、パスタなんて言葉も使われていなかったけれど、ある時給食で「スパゲッティカルボナーラ」が出てきた。そんな名前聞いたことは勿論ないからどんなものだろうと思ったら、黒コショウを効かせて炒めたベーコンと炒り卵をスパゲッティに合わせて更に炒めたような代物だった。カルボナーラといえばざっくり言うと「炒めたベーコンと生クリームと卵黄のなめらかなソースをたっぷり絡めて中央に卵黄を落として黒コショウを振りかけた」パスタなわけだから、今思えば別物というか、頑張って似せてきたんだな…というところ。卵にはしっかり火が通っていたし(これは衛生上という解釈も出来るか)。しかしこれがとっても美味しかったのだ。他にも昭和の家庭の食卓では耳慣れない料理名がちょくちょく出てきた。フライに添えられていたタルタルソースもそう。マヨネーズが嫌いだったけれどタルタルソースは好きになった。他にも昭和の給食の定番、鯨の竜田揚げとか、うずらの玉子争奪戦が起きた八宝菜、忘れちゃいけないのが揚げパン。そんなふうに食についての引き出しを養ってくれる良い機会だったと思っている。

 

今はパックの牛乳になっているのかなと思うけど、当時は牛乳瓶で出されていた。牛乳は好きだけど冬場はキンキンに冷えていて、1本飲み切るのが苦痛な時もあった。冷やしていたわけでもなさそうだったけどなんせ寒い地方だったので、常温でもとても冷たくてお腹の弱い子は大変だったんじゃないかと思う。それと小学校3年生くらいになると、牛乳を飲んでいる時に笑わせるという悪い遊びが横行し、いじられがちなキャラにとっては「鼻から牛乳」を阻止すべく涙ぐましい努力が必要だったし男子の間ではおふざけで残った牛乳の一気飲みが流行り、そして惨事(以下自主規制)

牛乳といえばミルメーク。あの美味しさは本当に罪深かったと思う。まず最初に一口飲んでから入れるんだよね、というのは共通認識。ミルメークが出る日は浮き足立つくらいだったけれど、ある時からぱったりと出なくなった。給食アンケートがあると必ずミルメークをリクエストしていたんだけど叶わず。今は普通にスーパーで買えるけど、そうじゃないんだ、あの感覚なんだよ……と完全に思い出補正の対象商品になっている。それと同列で語られるのが「ソフトめん」。同様の製品を買ってみたところでやはりそれは……個人的にはミートソースより和風の汁物に入れて食べるのが好きだった。

 

基本的に給食大好きで好き嫌いも少ない健康優良児ではあったけれど、いただけない組み合わせも幾つかあった。酢の物にミカンの缶詰、ポテトサラダにりんご、フルーツサラダにマヨネーズ……それらは今でも苦手なことに変わりはない。そして給食だから食べたけど、成形されたレトルトのしわしわオムレツ、四角いアルミのケースに入ったマカロニグラタン(保温されているからかアルミ臭さが残った)、口の中の水分取られる大豆スプレッドといったちょっと困ったメニュー。逆に人気メニューの日は、欠席者がいるとラッキー!とばかりにお代わりを巡る仁義なき戦いが繰り広げられていたっけ。まあそれらもひっくるめて給食の思い出。

 

ランチで給食メニューを出すお店を見つけるとつい入ってしまうけれど、やっぱりあの時あの場所であの年齢で食べたからこそ、というのは間違いない。それでもつい惹かれてしまうのが思い出という不思議な力だ。

 

 

 

 

 

地下鉄に興味津々

上京するまで地下鉄を知らなかった。ドラマや小説、歌詞の中でその存在は知っていたけれど、どんな路線があって何処へ行くのか全く知らないままで上京。知人の伝手ですぐにアルバイトを始めたのだが、勤務地までの交通手段として地下鉄での経路を教えられた。JRでも行くことは可能だったが当時は言われるがままそうする以外になかった。

さて、当時住んでいた有楽町線沿線から渋谷まで。聞いた通りに永田町で銀座線に乗り換えることに。ちなみに当時はSuicaどころかイオカード(ご存じの方はある一定の年齢以上かとお見受けします)すら無く、定期を買うまでは全て切符。まずは渋谷までの切符を買い有楽町線で永田町まで。そこですんなり銀座線に乗り換えられると思った。……が、銀座線ではない他の路線、半蔵門線のホームに出てしまった。しかも銀座線を示す黄色い輪っかは見えるものの「赤坂見附」なんて聞いたこともない駅。それが正しい経路だと知ったのは後になってからで、まさか半蔵門線のホームを経由しないと銀座線には乗れず、しかも別の駅名になっているだなんて上京直後の地下鉄初心者には知る由もなかったわけで。

「どうしよう、迷った!」と半ばパニックになっていたところへ「渋谷方面行き」の半蔵門線が到着。とにかく渋谷には行けそうだということで飛び乗り、結果的には無事渋谷に辿り着いたけれど、あれは本当に狐につままれた様な心持だった。これは知人の説明不足なのでは?と思われるかも知れないが、長年東京に住んでいる感覚だと当たり前過ぎて説明にも及ばないのだろうな、というのは解る。

 

それを機にというのも変だが、東京の地下鉄って複雑で面白いのでは?と興味を持ち始め、地下鉄乗り換えガイドのような本を購入し、休日は地下鉄に乗って降りたことのない駅に出掛けることが暫くマイブームになっていた。普段使わない路線、例えば千代田線や丸ノ内線。銀座線で浅草に行ってみた時は、一瞬車内灯が消えるのに驚いたし、新御茶ノ水駅が駅構内工事中で、その薄暗さがとても怖かったことをよく覚えている。丸ノ内線が途中で地上に出ること。東京ドームが見えること。そんな初心者向けの「地下鉄あるある」に素直に感動していた19歳。今思えば田舎もの丸出しでお恥ずかしい限り。そういえば銀座線の車内灯が消える現象が起こっていたのは平成の始めまでだったかと記憶している。91年に上京した連れ合いは知らなかったそうだ…。(実際に当該車両が廃止になったのは93年だそう)